私のマーニー

思い出のマーニーを見てきました。

色々と個人的な感情と重なる部分があり、作品の出来とは別に、そのような意味で非常に心を動かされる作品でした。

 

作品というのは送り手の思いには関係なく、受け手が勝手に各々の解釈をするものです。ですから、私の中の「思い出のマーニー」と、あなたの中の「思い出のマーニー」はきっとそれぞれに違ったものなのだと思います。

これは、作中で語られたメッセージでもあります。あなたもマーニーに会ったのね、と。皆がそれぞれに、同じだけれど、別々のマーニーに出会うのでしょう。

 

杏奈はマーニーに、信じることを教えてもらったのでしょうか。

 

相反する二つの事実が浮かび上がった時、片方の事実を選択すれば、問題から逃げる理由を得ることが出来ました。裏切られたから、愛されてないから、つまり、相手が悪い、私は悪くない、と。

本当は知っているのに、もう片方の事実もまた真実足りえるだけの根拠があることを。だけれど、そちらを選べば問題に立ち向かわなければならないのです。

 

これは非常に悲しいことです。立ち向かうことはとても難しいことです。だからといって、自分が愛されていないと認め、逃げることを悲しいと言わずなんと言えましょうか。

しかし、それでも立ち向かってなお真実に裏切られるよりは、ということなのかもしれません。

 

私も同じようなものでしょう。真実はほぼ見えています。見えていますが、一つだけピースが余ってしまうのです。あらゆることはそれを証明しているのに、たったひとつの事実だけが、嘘である可能性を残し続けている。

私はまだ逃げ続けています。目をそらし続けて、何事もないように、問題すら存在しないかのように。

 

さて、物語は当然終わりを迎えます。そこには映画を見た人たちが納得出来るだけの結末が用意されていなければいけません。

杏奈は事実に立ち向かい、欲していた真実を得ます。これは、物語ですから当然のことです。

また、映画の中での大きな疑問点に対する解答が与えられますが、それはいわば推理小説における謎解きのようなもので、この映画においてはスパイス以上の何者でもないように思います。

 

私が生きているのは映画の中ではありません。ですから、一夏のような短い期間で、或いは一生をかけてすら解決が訪れないことなど珍しいことではありません。

私もいまだ逃げ続けているだけです。

ですが、いつの日かこの世の中に存在する幾多の物語のように、この私の人生の中の一つの物語も、集結してゆくのではないかと思います。

ハッピーエンドではないかもしれません。立ち向かって、裏切られるという最悪の結末すら有り得ます。ですが、私はこの物語の終劇がよりよいものになることを信じて、毎日ほんの少しだけ立ち向かい、そして逃げ続けているのです。